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【サークル‧ライフ】 著者とのボクシング


2021.07.01チュ・ユースン
著者とのボクシング

【サークル‧ライフ】
著者とのボクシング

文/朱宥勳(チュ・ユースン)

 

「おまえには攻撃の欲求がない」

     私のボクシングのコーチがボクシンググローブを上にして手を挙げこのように言い、腹と肋骨の間の隙間を露出させた。我々は練習中だ。時々、彼は両手で自分の腹部を軽くたたき、再び手を挙げた。私はしばらく練習していて、またいくつかのゲームビデオも見てきた。私はこれが挑発的な行動であることがわかっている。意味するところは、私は自分の弱点をあなたにさらしている。戦おうとすれば、私を倒せる、ということだろう。
  コーチの言葉を聞いて、私は目をしばたたせた。闘争心が足りないのだろうか。あなたは私をからかっているのか?文学界の仲間の目からは、私はまだ「攻撃的すぎる」のではないかとさえ恐れられている。3日でトラブルが発生する。書評を書くだけで、どれだけ怒らなくてもいいのか分からなかった。 重心を少し下げて、右手でアッパーカットをすくった。グローブが触れた瞬間、私はコーチのすぐに鉄壁のように引き締まった腹筋に対して「手応え」がないことを知った。手の感触から、これは血を一滴も流せないほど効果のない攻撃であることを知った。
  私は半歩ほど後退した。 息を吸った後、コーチは微笑みながら近づいてきた。「引き下がる?立っておまえにパンチを食らわすか、それとも引き下がるか?」 

        そうだ、私は本当に攻撃の欲望というものがない。

        ボクシングをゆるいペースで週に1回練習するのは今年で2年目だ。初めは武漢新型肺炎が急激に発生したことから、運動する時間が多く空いたので、すぐ近くにジムを見つけた。その後、単純な訓練の繰り返しは少し単調だと感じたので、ボクシングは30分ほどで切り上げた。
意外なことに、練習はすぐに「自分を知る」旅程になった。「闘争心の欠乏」に気付くだけでなく、自分が長年使っていた体を全く知らなかったことに気づいた。ボクシングを始めたら、フットワークとフックの調整に慣れる必要がある。パワーの源は手ではなく足であるためだからだ。私は野球ファンで、少し遊んだことがあるのでスイングとピッチングがすべて足の回転力であることを知っている。しかしながら、不思議なことに ボクシングのルールでは、我々の防御の重点は、あごの両側、横隔膜、そして左右の肋骨にある。後者の2つが打たれると倒れやすく、あごは人体の「電源ボタン」の位置にあり、軽く打たれただけで意識を失ってしまう。 興味深いことに、あごはとてももろいが、額や頬はとてもしっかりした部分である。 コーチは、見た目には人が打たれて鼻や目尻から血が流れた時、戦意を失うと言った。実際、これらの場所は苦痛ではあるが、戦闘能力には少しも影響しない。パンチを受け、ノックダウンしたかどうかの差は5センチだ。

 子供の頃から本を読んだり勉強したりしていて、文字の上では攻撃したり防御したりする方法を知っていた。しかし、人体の攻撃と防御がこのように精緻であることを私が知ったのはこれが初めてである。

 そして時に、体の道理はほとんど文学的な比喩のようである。 たとえて言うと、左右のアッパーカット、上腕と下腕はだいたい90度にする必要がある。打ち始めは、もっとフックを決めるには遠すぎるように思えて、どうしても手を真っ直ぐに伸ばさざるを得なかった。

 しかし、パンチを繰り出すと、アッパーカットの「フック」が必要であることがわかる。アッパーカットの力はつま先から腰へのねじり力から来るため、「フック」がない場合、腕全体が全身の力を直接受けてしまい、耐えきれずに最も弱い部分が壊れてしまう。 言い換えれば、私はなすすべもなくひじを折るだろう。 これはあたかも詩の一場面であるかのようだ。

 しかし、コーチは言う。これは詩である必要はなく、まして道理である必要はなく、神経と筋肉の記憶に刻まれた日常である。私の毎週の練習は、私とは完全に反対の存在に出会い、そこから自分自身を認識し、さらには自己を改造させるようなものだ。しかし、それでも例えばコーチが驚いた瞬間など、納得できない瞬間がいくつかあった。「おまえは子供の頃から本当に誰とも殴り合いなどしてなかったか?」

 ええと、どうも文芸界の印象を考慮しなければの話だが。

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